半導体失敗の教訓

NEC、東芝、日立が世界3強に

そもそも半導体産業は、アメリカで生まれた。しかし、アメリカの後を追う戦後の日本は、得意の量産技術を生かして猛烈に攻め込んだ。

とくに日本の電機メーカーは、DRAM(メモリー)の生産に力を注ぎ、1980年代半ばには米国製品を圧倒した。1986年には日本企業は全世界での売上高で米国企業を上回った。1980年代末から1990年代初頭の時点で、NEC、東芝、日立製作所が世界の三強になった。

祖業を捨てる勇気

こうしたなか、インテルは1985年にDRAM生産から撤退し、マイコンに集中した。これが大正解だった。

そもそもインテルはメモリーから生まれたベンチャーである。上記でも触れたが、インテル創業者のロバート・ノイス氏は「磁気メモリー(コアメモリー)を半導体メモリーに変える」ことをミッションにしていた。そして、実際にDRAMとROMの開拓者になったのである。

選択と集中

にもかかわらず、インテルは、利益の薄いメモリーチップ事業から撤退した。そのかわり、付加価値の高い「ロジックチップ」(論理回路)事業に集中した。祖業を捨てる行為は、日本企業にはなかなか真似ができないことだ。

半導体の二極化

1990年代から、世界の半導体市場は大きく二極分化した。

半導体の種類 内容・特徴
コモディティー(普通の商品)と化した半導体 メモリーなど。常に価格競争にさらされ、マージンは低くかつ変動が大きい。
技術に裏付けされた希少性のある半導体 マイコンなど。高率安定マージンが維持されている。競争が激しい半導体業界の中で、インテルは例外的にMPUという参入障壁の高い希少商品分野を確立し、独占した。

パソコンで日本が敗北

1990年代に急速に普及したパソコンにおいて、マイコン(CPU)は一個数万円もする高付加価値商品になった。一方、メモリー(DRAM)は1個数百円まで値段が下落した。

日本メーカーが開発に力を入れたDRAMは、集積度が上がるにつれ、開発費がかかった。その一方で、記憶能力が向上したため、それを大量に使う商品が生まれないと、消費が増えないというジレンマに陥った。供給過剰から価格も下がり、薄利多売のドロ沼に足を突っ込んでしまった。

DRAMから早々に撤退してたインテルは、世界のパソコン用マイコン市場で圧勝した。

米国の復活

インテルだけでなく、米モトローラ、米テキサス・インスツルメンツ(TI)も通信用半導体など付加価値の高い得意分野を生かし、それぞれ業績を向上させた。1993年、世界の国別半導体シェアで米国が日本を上回り、8年ぶりに首位に返り咲いた。

これに先立つ1991年、NHKは「電子立国日本の自叙伝」という番組を放送する。そこで、日本の半導体業界を手放しで自画自賛していた。

日本の衰退の理由

上記の通り、日本の半導体産業の衰退の理由には、「経営戦略の誤り」が挙げられる。

しかし、もう一つ忘れてならないのが、「ソフト軽視・ハード重視」である。

ソフト会社「ダイナウェア」が消えた

たとえば1980年代、日本のコンピューターソフト会社「ダイナウェア」(本社・大阪府箕面市、藤井展之元社長)は、大企業が手を組んで、銀行が融資していたら、マイクロソフトのウインドウズをしのぐソフトを作ることができた。

ダイナウェアは1983年、大阪大基礎工学部の学生を中心に設立されたベンチャー企業だった。1984年10月にはウインドウズの概念を実現した。パソコンの画面上でレイアウトができるソフトウエアを開発した。「ダイナデスク」という名前だった。

こうしたタネを活かすことができなかった。

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株式会社プレナス

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